今日の京都検定:豊臣秀吉が平安京の大内裏跡に造営した壮大な邸宅は? - ぱんだららの旅と節約と通訳ガイドを目指すブログ

今日の京都検定:豊臣秀吉が平安京の大内裏跡に造営した壮大な邸宅は?

Today's Kyoto test通訳ガイド
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今日の京都検定の問題について解説するよ!

京都検定3級合格を目指して、京都について勉強をしています。
京都検定に興味を持ったのは、昨年通訳ガイドとしてデビューしたことから。私は大阪在住ですが、はやり通訳ガイドのお仕事はほとんどが京都。今までももちろん京都に行ったことも添乗員として案内したこともありましたが、いざガイドとして京都を案内しようとすると京都のことを何も知らない!

ということで京都についてもっと知りたいと思った時に知ったのが京都検定でした。京都検定3級の問題は90%以上が公式テキストブック「京都・観光文化検定試験公式テキスト 新版」から出るのですが、この1冊だけでもものすごい範囲。とりあえず問題を問いていくのが一番の勉強方法と思っています。

京都検定の過去問は京都新聞ですべて公開されていますが、日々少しずつ勉強したい場合は京都新聞の「きょうの京都検定ミニチャレンジ」に挑戦するのがおすすめ。

京都検定の2級と3級の過去問題が1日1問ずつ出題されます(利用するには京都新聞ID<無料>が必要)。毎日午前0時に更新されるので是非挑戦してみてくださいね!

5月13日のきょうの京都検定ミニチャレンジ 3級

豊臣秀吉が平安京の大内裏跡である内野に造営した壮大な邸宅は何か?

歴史・史跡に関する問題:天下人となった豊臣秀吉が平安京の大内裏跡である内野に造営した壮大な邸宅は何か?

ア:聚楽第(じゅらくだい) ⇒ 正解

聚楽第は、安土桃山時代に豊臣秀吉が京都市上京区に建設した政庁兼邸宅兼城郭で、平安京大内裏の跡地に位置します。1586年に建設が開始され、翌1587年に完成しました。聚楽第は、秀吉が政務を行う場所として、また、後陽成天皇の行幸や重要な会見が行われる場として利用されました。しかし、秀次が秀吉によって追放された後の1595年に、秀吉は聚楽第を徹底的に破壊しました。

豊国神社:豊国神社は聚楽第があった場所に残っています

聚楽第の建物は金箔瓦や白壁の櫓を特徴とし、形態としては平城に分類されます。本丸を中心に、西の丸・南二の丸及び北の丸(豊臣秀次による増築)があり、堀に囲まれていました。しかし、聚楽第の存在期間は短く、竣工からわずか8年で破却されたため、今日ではその多くの部分が不明な点が多いです。その後、聚楽第の場所には、豊臣家の京屋敷が新たに建設され、現在の仙洞御所の地に位置する京都新城が設けられました。

イ:東三条殿 ⇒ 不正解

東三条殿は平安時代に京都の左京3条3坊1町に建てられた藤原摂関家の邸宅で、特に藤原兼家の主邸として知られています。この邸宅は、その娘の藤原詮子が出家後、「東三条院」として知られ、日本初の女院となりました。11世紀後半には摂関家の象徴的な邸宅として重要視され、保元の乱の舞台ともなりました。また、建築史においても重要な研究対象であり、寝殿造の代表例とされています。しかし、時間を経て何度か焼失し、最終的には再建されないままになりました。

ウ:土御門殿(つちみかどどの) ⇒ 不正解


土御門殿(つちみかどどの)は、平安時代に平安京の左京1条4坊16町に建てられた大きな邸宅です。現在の京都市上京区京都御苑のあたりに位置していました。この邸宅は、道長や彼の家族によって使われ、多くの重要な出来事がここで行われました。特に道長の娘である藤原彰子がここで二人の皇子を出産し、それぞれ後の天皇となりました。また、この邸宅は三代の天皇の里内裏としても機能し、道長家の繁栄を象徴していました。しかし、1016年に火事で焼失しましたが、再建されてさらに立派になりました。土御門殿は、その後も何度か焼失と再建を繰り返し、鎌倉時代には荒廃してしまいました。

エ:六波羅第(ろくはらだい) ⇒ 不正解

六波羅探題

六波羅は京都の鴨川東岸、五条大路から七条大路一帯の地名で、元々は空也が建てた西光寺が六波羅蜜寺と改名されたことからこの名が付きました。平安時代後期には、伊勢平氏の平正盛がこの地に邸宅を構え、後に息子の忠盛が六波羅第を建てて一族の拠点としました。

しかし、1183年に平家一門が都を落ちたため、六波羅第は焼失しました。その後、この地は源頼朝に与えられ、武士の拠点となり、1221年には六波羅探題が設置されています。その後、1333年には足利尊氏によって陥落しましたが、室町時代には信仰の地として再び重要性を増しました。

まとめ:豊臣秀吉が造営した壮大な邸宅は聚楽第

豊臣秀吉と京都の関わりは深く、彼が天下の実権を握った後の1586年、旧平安京の大内裏跡地にあたる内野に「聚楽第」の建設を始めました。聚楽第の建設は、約10万人の労働力を動員して行われ、深さ約5.4メートル、幅36メートル、全長1800メートルの堀が設けられました。また、周囲には武家や公家の屋敷が整然と配置され、城下町のような景観が形成されたのです。

1587年に完成した聚楽第は、金箔瓦で覆われ、その豪華な外観が上京の景観を一新したのだそう。秀吉はこの新しい邸宅から政務を行い、さらに御所の修築も手掛けました。これらの大規模な都市改造は、京都の歴史的な景観だけでなく、その機能も変えていったのです。

さらに秀吉は、1589年から2年かけて御所を完全に新造し、1591年には京都を囲む「お土居」の建設も命じました。このお土居は、軍事的な防御のみならず、洪水から市街地を守る役割も果たしました。秀吉の都市計画により、京都は城塞都市へと変貌したのです。

このように、秀吉は京都において、聚楽第を中心に様々な文化的、政治的施策を展開しましたが、1595年には聚楽第を破却し、その後の政治情勢も大きく変わっていきました。

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