今日の京都検定:東山殿(銀閣)を造立した、室町幕府八代将軍は誰? - ぱんだららの旅と節約と通訳ガイドを目指すブログ

今日の京都検定:東山殿(銀閣)を造立した、室町幕府八代将軍は誰?

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今日の京都検定の問題について解説するよ!

京都検定3級合格を目指して、京都について勉強をしています。
京都検定に興味を持ったのは、昨年通訳ガイドとしてデビューしたことから。私は大阪在住ですが、はやり通訳ガイドのお仕事はほとんどが京都。今までももちろん京都に行ったことも添乗員として案内したこともありましたが、いざガイドとして京都を案内しようとすると京都のことを何も知らない!

ということで京都についてもっと知りたいと思った時に知ったのが京都検定でした。京都検定3級の問題は90%以上が公式テキストブック「京都・観光文化検定試験公式テキスト 新版」から出るのですが、この1冊だけでもものすごい範囲。とりあえず問題を問いていくのが一番の勉強方法と思っています。

京都検定の過去問は京都新聞ですべて公開されていますが、日々少しずつ勉強したい場合は京都新聞の「きょうの京都検定ミニチャレンジ」に挑戦するのがおすすめ。

京都検定の2級と3級の過去問題が1日1問ずつ出題されます(利用するには京都新聞ID<無料>が必要)。毎日午前0時に更新されるので是非挑戦してみてくださいね!

5月14日のきょうの京都検定ミニチャレンジ 3級

義満の北山殿(金閣)にならって東山殿(銀閣)を造立した、室町幕府八代将軍は誰か?

義満の北山殿(金閣)にならって東山殿(銀閣)を造立した、室町幕府八代将軍は誰か?

ア:足利尊氏 ⇒ 不正解

足利尊氏は、日本歴史上初の室町幕府の将軍として知られています。彼は鎌倉時代の末期から南北朝時代にかけての重要な武将であり、1338年から1358年まで征夷大将軍の地位にありました。尊氏は足利貞氏の次男として生まれ、若い頃から武将としての道を歩み始めました。

1333年、尊氏は後醍醐天皇の命を受けて鎌倉幕府を倒すことに成功し、その功績により大将軍に任命されました。その後、彼は室町幕府を設立し、新たな政権の基礎を築きました。しかし、彼の時代は政治的に不安定で、多くの反乱や内紛がありました。尊氏は幕府の基本方針を定めた『建武式目』を発布し、軍事や行政を整備しました。

また、尊氏は文化にも貢献し、勅撰和歌集の編纂を進めるなど、武家歌人としても活動しました。彼の晩年は南朝との戦いに追われ、多くの困難を乗り越えながらも、室町幕府の基盤を強固なものにしました。1358年に亡くなるまで、尊氏は日本の武家政権の在り方に大きな影響を与え続けました。

イ:足利義政 ⇒ 正解

足利義政は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての日本の武将で、室町幕府の第8代将軍です(在職:1449年〜1473年)。彼は足利義教の五男として生まれ、若くして兄の跡を継ぎました。義政は守護大名たちとの力のバランスを保つことに苦労しましたが、彼の時代は特に政治的に不安定でした。その結果、有名な応仁の乱を引き起こすことになります。この乱は日本史上最も混乱した時期の一つであり、その後の戦国時代へと繋がっていくことになります。

また、義政は文化人としても知られ、彼の時代には東山文化が花開きました。彼は多くの文化人や芸術家を保護し、茶の湯や庭園など、日本の伝統文化に多大な影響を与えました。政治面では困難が多かった義政ですが、文化と芸術においては顕著な足跡を残しています。彼の治世は、日本の美術史においても重要な時期とされています。

ウ:足利義輝 ⇒ 不正解

足利義輝は室町13代将軍で1536年に生まれ、1565年に亡くなっています。将軍の家系に生まれた義輝は幼いころから将軍としての教育を受け、1547年にわずか11歳で将軍に就任し、その後も様々な政治的な争いに巻き込まれながら、幕府の権力を守ろうと奮闘しました。

義輝の時代は、多くの大名や勢力が自分たちの地位を確立しようとしていた動乱の時期でした。特に、細川晴元や三好長慶などの有力大名との間で権力争いが激しく起こり、義輝自身も多くの戦いに直面しました。1565年、義輝は三好三人衆によるクーデターで暗殺されましたが、彼の死は多くの人々に衝撃を与え、その後の歴史にも大きな影響を与えています。

義輝はその短い生涯で多くの困難に直面しながらも、将軍としての責任を果たそうと努力しました。そのため、勇敢でありながらも悲劇的な英雄として歴史に記憶されています。

エ:足利義持 ⇒ 不正解

室町幕府の第4代将軍の足利 義持は1394年に9歳で将軍職を継承し、1423年までの約28年間、この地位にありました。義持の治世は室町幕府の中で比較的安定していた時期として知られています。

義持は第3代将軍である父・足利義満の息子で、義満が存命中は父の影響力の下で将軍職を務めました。義満の死後、義持は幕府の実権を握り、守護大名たちとの調整役として活躍しました。

義持の治世中、彼は内政面でいくつかの改革を行いました。特に、寺社への所領安堵や復興を進め、領地の安定化を図りました。また、義満が築いた明との外交関係を見直し、冊封関係を断絶する決断をしています。これは義満の「日本国王」称号に対する批判も影響していたとされています。

しかし、いくつかの問題も起こっています。1416年には関東で上杉禅秀の乱が発生し、幕府軍がこれを鎮圧しました。また、義持の異母弟である義嗣が反乱を企てたとして処刑されるなど、内部でも緊張が高まりました。

義持は1423年に将軍職を息子の義量(よしかず)に譲り、自らは出家して道詮(どうせん)と号しましたが、義量が若くして亡くなったため、義持が再び実権を握っています。

晩年の義持は健康を崩し、1428年に43歳で亡くなりました。義持の死後、籤引きによって弟の足利義教が第6代将軍となりました。義持の治世も室町幕府の中では比較的安定していた時期とされ、その後の幕府の発展に大きな影響を与えています。

まとめ:室町時代の京都の建築物に大きな影響を与えたのは足利義満と義政

足利義満は、金閣寺として知られる鹿苑寺を建立しました。その美しい外観で有名となった金閣寺は、当時の権力や富の象徴となりました。義満の影響で京都の建築は豪華さを増しました。

一方、足利義政は銀閣寺として知られる慈照寺を建てています。銀閣寺は、質素で落ち着いた雰囲気を持ち、和風の美しさを強調しました。義政の影響で茶の湯文化が広がり、建築にもシンプルな美しさが求められるようになりました。

このように、足利義満と足利義政はそれぞれ異なるスタイルで京都の建築に大きな影響を与え、現代までその美しさが伝わっています。

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