梅田駅周辺で、歩いて行ける歴史的に有名な場所はないかしら?
それなら、お初天神を紹介しよう!ここは、元禄文化の中心人物、近松門左衛門が『曽根崎心中』を書く際に、舞台とした場所だよ。
「せっかく梅田まで来たので、どこか歴史的に有名な場所を訪れてみたいな」
それなら、日本の伝統芸能に輝く名作、近松門左衛門の人形浄瑠璃『曽根崎心中』の感動的なストーリーが繰り広げられた舞台の一つ、お初天神へと行ってみませんか?
近松門左衛門は江戸時代に活躍した劇作家であり、『曽根崎心中』は彼の代表作の一つとされています。この作品は、愛と死、そして運命に翻弄される情熱的な恋愛物語です。独特の美しさと心に響く物語が絶妙に融合した伝統芸能の中でも、近松門左衛門の人形浄瑠璃の作品は特に優れたものとされています。
この名作の舞台として注目されるのが、お初天神(おはつてんじん)です。お初天神は、大阪市中央区にある神社で、多くの舞台や物語の背景となってきました。『曽根崎心中』もそのひとつで、お初天神を中心に物語が進行します。神社の雰囲気が物語に深い味わいを与え、訪れた人を物語の世界に引き込みます。
お初天神は、近松門左衛門の舞台としてだけでなく、多くの人々にとっても心の拠り所となっています。江戸時代から続く歴史と伝統が息づくこの場所で、物語の主人公たちが織りなす悲劇と美しさが、今もなお訪れる者たちを引き寄せてやみません。
『曽根崎心中』の舞台、お初天神は、古き良き日本の風情と美しさを感じさせる場所として、近松門左衛門の作品に相応しい舞台と言えるでしょう。この物語の背後に広がるお初天神の神秘的な雰囲気を体感し、彼の描く人間ドラマに触れてみることは、歴史と芸術の融合を感じる素晴らしい体験となることに違いありません。大阪に行った際は、ぜひお初天神に足を運んで、歴史の勉強の参考にしてくださいね。
お初天神ってどんな神社
お初天神はどこにあるの
お初天神までは、JR大阪駅から徒歩約5~10分です。
※大阪と梅田は同じです。鉄道会社によって、大阪駅・梅田駅といいます。
近いのは近いのですが、梅田駅周辺はかなりややこしく、初めての時は迷いやすいので、出来るだけ分かりやすい道から行きましょう。
行き方の例(雨の日や暑い日はなるべく地下から第4ビルまで行くのがおススメ):
① JR大阪駅(南口)を出る
② 前のバスロータリーを左へ進み、横断歩道を渡った後、前にある階段を上る
③ 歩道橋を阪神百貨店側へすすみ、店には入らず左側の通路を歩いていく
④ 突きあたりにあるエスカレーターを降り、そのまま大通り沿いにまっすぐ歩く
右側に第4ビルが見える(FORUM4と書かれた建物)
⑤ 左側に横断歩道が出てきたら、大通りを渡る(正面に鯛焼き本舗が見える)
⑥ 鯛焼き本舗の右側の通路を入ると、すぐアーケードの下に出るので、そのまま
アーケード下を抜けるとすぐ右に神社の入り口
お初天神について
正式名称は、露天神社といいます。
名前の由来は、菅原道真が筑紫の国へ左遷される途中で、参拝に立ち寄られた時に、『露と散る涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出ずれば』と詠まれたことから、とされています(諸説あり)。
そのため、御祭神には、天照皇大神、豊受姫大神、少彦奈大神、大己貴大神と並んで、菅原道真公のお名前も入っています。
また、境内には、道真公のお使いの牛が祀られ、『神牛さん』『撫で牛さん』と親しまれているんですよ。
1703年には、実際に心中事件があったそうですが、その事件を題材に近松門左衛門がヒロイン『お初』の曽根崎心中を書いたため、通称で『お初天神』と呼ばれるようになったのですね。
お初天神の境内にある近松門左衛門の曾根崎心中に関するもの
今や、『恋人の聖地』、『縁結びの神社』とされているだけに、神社の境内の中には、曽根崎心中を題材にした多くのものがあります。
お初と徳兵衛の物語のパネル
曽根崎心中のあらすじが書かれたパネルが、可愛らしい絵と一緒に書かれています。
先に読んでから行くと、なお興味深く参拝が出来るかもしれませんね
恋のおまいりグッズ
縁結びのお守りなど、お初と徳兵衛にちなんだグッズもたくさん販売されています。
絵馬はハート型など4種類あって、恋の成就や永遠の愛を願う方が多いですね。美人祈願の絵馬もありますよ。
・えんむすびお守り ペア
・鈴が付いたストラップ/ハート型の翡翠ストラップ
・匂い袋
・水晶のブレスレット
曽根崎お初天神通り商店街
せっかくなので、お初天神のお参りの後は、お初天神通り商店街を通って帰りましょう。
多くの飲食店などで、いつも賑わっています。
神社入り口のすぐ前にあったアーケードが、その通りです。
この商店街は、お初天神の境内にあった飲食店が、戦後そのまま食堂街となり広がっていきました。
当時のお店が、そのまま現在も営業しているところもありますよ。
では、次は、露天神社を有名にした近松門左衛門について書いていきます。
近松門左衛門とその作品
元禄文化の文学
近松門左衛門が活躍したのは、江戸時代の中期、徳川綱吉が将軍だった元禄時代(1688年から1704年の16年間)と呼ばれている頃です。
その為、この頃発達した文化のことを、元禄文化と呼びます。
ちなみに、後ほど文化・文政時代(1804-1831)に発展する文化を化政文化と呼びますが、元禄文化とよく比べられるので、違いをチェックしておきましょう。
元禄文化は、上方(京都・大阪)の豪商や町人を中心に広まったという特徴があります。
文芸や芸能では、小説、俳諧、俳文、脚本、浄瑠璃、歌舞伎といったものが発達しました。
文芸・芸能 | 作者・芸者 | 作品名 |
---|---|---|
小説 | 井原西鶴 | 好色一代男 日本永代蔵 |
俳諧 | 松尾芭蕉 | 蕉風 |
俳文 | 松尾芭蕉 | 奥の細道 |
脚本 | 近松門左衛門 | 曽根崎心中 |
浮世絵 | 菱川師宣 | 見返り美人図 |
浄瑠璃 | 竹本義太夫 | |
歌舞伎 | 坂田藤十郎 市川団十郎 |
人形浄瑠璃と曽根崎心中
曽根崎心中は、近松門左衛門が書いた人形浄瑠璃の脚本です。
元々、浄瑠璃とは、室町時代以降発展したもので、口で話をして聞かせる、ということだったのですが、この『語り』に三味線の伴奏がつき、やがて人形劇と結び付いて人形浄瑠璃となりました。
人形浄瑠璃(現在は文楽と言われています)には、いくつも流派があるのですが、その中でも一番人気だったのが、竹本義太夫でした。
その話を聞いた、近松門左衛門は、竹本義太夫の為に『出世景清』を書き、この作品が大ヒットを収めます。
その後、近松門左衛門は、歌舞伎のための狂言を書いたりして、浄瑠璃の脚本を書くことから離れていたのですが、1703年に起きた心中事件を題材に、『曽根崎心中』の脚本を書いたところ、またもや大人気となったわけです。
近松門左衛門の代表作品
曽根崎心中以外にも、近松門左衛門は多くの傑作を生み出しています。
その中から、特に有名な作品を挙げておきます。
心中天網島(しんじゅう てんの あみじま)
1720年に初演された、三部構成の世話物のお話です。
当時、庶民の日常の話題を扱ったものを世話物、反対に、日常からかけ離れた話題のものが、時代物と呼ばれました。
心中天網島は、大阪天満に住んでいた商人治兵衛と、遊女の小春との恋物語です。
この作品も、最後は心中してしまうのですね。
国姓爺合戦(こくせんやかっせん)
1715年に初演された、五部構成の浄瑠璃の脚本で、後に歌舞伎でも演じられています。
日本人と中国人のハーフで、中国明代の軍人、政治家鄭成功(てい せいこう)を題材に取った時代物です。
鄭成功は、清の国に滅ぼされようとしている明王朝と共に抵抗運動を続け、台湾に渡って、新しい政権を樹立したことで、台湾では民族的英雄と称えられている人です。
女殺油地獄(おんなころし あぶらのじごく)
1721年に初演された、三部作の世話物です。
大阪天満の油屋の義理の息子、与兵衛は店のお金を持ちだして遊女と遊んでばかりいる放浪者。
ついに勘当され、与兵衛は借金をしますが、返すことが出来ず、仲の良かったお吉にお金をせびります。しかし、断られたのでお吉を惨殺。
お吉の三十五日の供養に出席していたところ、天井のネズミが借金の証拠の紙を落とし、それが証拠となって与兵衛は捕まりました。
まとめ
近松門左衛門と曽根崎心中、いかがでしたでしょうか。
歴史・文化と深い係わりのある場所が、大阪駅からすぐのところにあったのですね。
大阪に行った際には、ぜひ立ち寄ってみてください。
また、江戸時代の文化(元禄文化・化政文化)は、日本史の試験でもよく取り上げられています。これを機に、覚えてくださいね。
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