2020年に放送されたNHKの大河ドラマ『麒麟がくる』で、吉田鋼太郎さんが演じた、松永久秀ってどんな人なの?
日本史上でも、悪人として知られているんだよ。戦国時代初期に、今の近畿地方で、知恵と力でのし上がってきた下剋上を代表するような人なんだ。
信貴山城、かつてそびえ立っていたその姿は、今は風化し、垣の断片と草花が残る場所となっています。しかしこの城は、戦国時代に名を刻んだ武将、松永久秀の居城でした。信貴山の頂にそびえ立っていた信貴山城は、歴史の舞台のひとつで松永久秀の複雑な人間模様が今もなおその地に息づいています。
松永久秀を語る上で大事なのは三好長慶との関係です。主従関係にあるだけでなく、友情と陰謀、時には裏切りにも満ちた複雑なものでした。三好長慶の一家臣から出世を繰り返すうちに、彼はいつしか悪人と呼ばれるようになり歴史のページに深い影を投げかけています。
しかしその一方で、松永久秀は武将としてだけでなく、茶人としても知られており文化人としての一面もあります。武勇に裏打ちされた厳格な姿とは裏腹に、茶の湯に生きる繊細で美意識豊かな一面も彼に備わっていて有名な茶器の数々も持っていました。
信貴山城はそんな松永久秀の最期の舞台となった場所です。伝説によると、織田信長も欲しがった平蜘蛛の茶器を抱いて城に籠り、彼の生涯に終止符が打たれたのだとか。その最期には未だに謎が多く、信貴山城跡は歴史と伝説が交錯する神秘的な場所として、今も静かにたたずんでいます。
この記事では、松永久秀の一生、悪人と呼ばれる理由、そして最後を遂げた信貴山城があった信貴山について書いています。信貴山に行かれた時はぜひ松永久秀という武人に思いを馳せてみてくださいね。
下剋上を成し遂げた松永久秀と三好長慶の関係図
松永久秀が三好長慶に仕えた時の勢力関係
松永久秀は生まれた場所は定かではないものの、1508年に誕生したとされています。
土豪出身と言われており、身分はあまり高くなかったのですが、25、6歳の頃から、当時近畿地方で力をつけ始めていた三好長慶(みよしながよし)に最初は右筆(書記)として仕えます。
その時の、主従関係は下記の通りです。全体を見てみると、松永久秀はかなり下っ端ということが分かりますね。
- 細川晴元は将軍足利義晴に仕える
- 三好長慶は細川晴元に仕える
- 松永久秀は三好長慶に仕える
三好長慶の出世と松永久秀が信貴山に城を建てるまで
しかし、勢力図は序々に変化していきます。
1548年に三好長慶は、主君である細川晴元と対立し、戦いに負けた細川晴元は足利義晴・義輝親子と共に近江国へ亡命します。
以後、いくつかの戦いを経て、最終的に将軍とも和睦し、13代将軍となっていた足利義輝は1558年に京へ戻りますが、三好長慶は幕府の主導者として、実権を握ることとなります。
三好長慶の側で、着々と出世を遂げていた松永久秀も、有力武将として台等してきます。
1560年には、弾正少弼(だんじょうしょうひつ)に任官されており、このことから松永弾正とも呼ばれるようになりました。同じ年には、信貴山城に移り、天守を造営しています。
三好長慶の息子の三好義興と共に、足利義輝の元に出仕して仕事を行うことも増え、やがて、長慶から大和一国の管理を任され、一国の大名と同じ立場へとなっていきました。
ところが、三好家では、長慶の弟たちや息子義興が相次いで亡くなり、長慶も1964年に亡くなります。
その後も、しばらくは久秀は、三好三人衆と呼ばれる三好長逸・三好宗渭・岩成友通と長慶の後継者である三好義継を支え続けます。
松永久秀は何故悪人と呼ばれるのか
悪人と言われる人は日本史上、何人もいますが、戦国時代の悪人は?と問われれると必ずと言って良いほど出てくるのが、松永久秀です。
下剋上が当たり前の時代、主君を倒してのし上がる人も多かったのですが、松永久秀もまた、主家である三好家を乗っ取り、そして将軍の足利義輝の暗殺にも一役買ったと言われています。
松永久秀が悪人と呼ばれるのは、3つの大罪を犯したからと言われています。
そのため、斎藤道三と並んで、『戦国の梟雄(きょうゆう)』とまで言われています。
梟雄とは、残忍で強く荒々しいこと。また、その人。悪者などの首領にいう。
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
では、その3つの大罪とは何でしょうか。
松永久秀は三好家を乗っ取った?!
まず、一つ目は、三好家を乗っ取ったと言われていることです。
上でも書いたように、下っ端の右筆だったにもかかわらず、出世を重ね、最終的には足利義輝の元で、三好義興とほぼ同格の仕事を与えられるようになりました。
また、三好長慶の弟の十河一存と、息子の義興は、病死したとされていますが、当時は、三好家の乗っ取りを計った松永久秀が毒殺したという噂が流れたようです。
さらに、三好長慶は晩年、もう1人の弟の安宅冬康(あたぎ ふゆやす)を謀反の疑いで殺害するのですが、これも松永久秀の策略であると多くの民衆は噂したとされています。
しかし、どれも根拠は何も残されておりません。
上昇志向があったことは間違いなさそうですが、三好家を乗っ取ろうとしたというのは、松永久秀の活躍を妬んだゆえの噂話だったかもしれませんね。
長慶亡き後は、後継者の義継を三好三人衆と共にささえ、足利義輝暗殺事件後は三好三人衆と一時敵対するものの、最終的にはまたタッグを組んで信長と戦ったりもしています。
少なくとも、三好長慶には忠実であったことは間違いなく、出世はしたいものの、三好家を乗っ取るつもりであったかどうかは分からないところです。
松永久秀は将軍足利義輝の暗殺に関わった?
2つ目は、13代将軍足利義輝の暗殺です。
ただし、直接手を下したわけではありません。
1565年、5月19日、久秀の息子の久通と、三好三人衆、そして当時の三好家のトップであった三好義継は、御所にいた将軍足利義輝を襲撃して暗殺します(永禄の変)。
その時、久秀は京都にはおらず、暗殺に関与していたわけでもありません。
しかし、元々将軍を操って政治を行いたいと思っていた久秀にとって、聡明な足利義輝は邪魔な存在でしかなく、暗殺を黙認したと言われています。
松永久秀は東大寺の大仏殿焼き打ちを行った!
3つの大罪と言われているうち、確実に行ったのは、この東大寺の大仏殿焼き打ちです。
足利義輝暗殺事件後、久秀と三好三人衆は畿内の覇権をめぐり、対立することとなるのですが、その戦いの中で、三好三人衆が1567年に東大寺に陣を置き、そこに松永久秀が奇襲をかけたのです。
この戦いに勝って、松永久秀は畿内の主導権を得ますが、そのときに大仏殿が焼失し、大仏の首も落ちてしまいます。実際に火をつけたのは、三好軍なのか、松永軍なのかははっきりしていないものの、奇襲を行ったのは間違いなく、大仏殿焼き打ちの汚名がつきました。
松永久秀が3つの大罪を犯したと言ったのは誰?
このように、実際は、噂話が多く、実際に松永久秀が行ったかどうか分からないのに、3つの大罪を犯した人物とレッテルを貼られてしまったのは何故でしょうか。
それは、この人がそう言ったから!そう織田信長です。信長は、家康に松永久秀を紹介する時にこう言ったそうです。
この男は、「人では一つとして成せないことを三つも成した男」だから気をつけろ!と。
噂話であれ何であれ、松永久秀は、信長にとってさえ、そういうイメージだったのですね。
松永久秀の茶人としての一面と多くの茶器
そんな悪評が目立つ久秀ですが、実はとても男前だったとか、茶の道に通じていたという一面も。極悪非道のイメージが強い松永久秀ですが、茶人としても、相当優れていたようです。
元々、堺に広大な海船政所を持つ三好長慶の元で畿内を治めていたため、堺の商人たちとも深い交流がありました。
その中でも、堺茶道の祖として知られる武野紹鴎(たけの じょうおう)を師事し、お茶を習っていました。武野紹鴎と言えば、千利休のお師匠さんでもありますね!
また、堺の豪商で知られる今井宗久(そうきゅう)や、津田宗達(つだそうたつ)ともお茶会をするほど仲が良かったのです。
当時は、一流の茶人として認められる為に、有名な茶器を所持することが必要でしたが、すでに、大名家クラスの経済力があった久秀は、多くの名器を持っていたようです。
その茶器の中でも、特に有名なのが、『九十九髪茄子(つくもかみなす)』茶入れと『古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)』茶釜でした。
松永久秀の茶器:『九十九髪茄子』茶入れ
九十九髪茄子は唐物の茶入れで、現在は静嘉堂文庫美術館に保管・展示されています。
元々は、足利義満が持っていたもので、代々足利将軍家に伝わっていたものの、その後質入れされ、1558年に松永久秀が買っています。
こんなイメージ(本物ではありません)まだ、三好三人衆と対立していた頃、松永久秀は信長に同盟を願い、その協力の証として、この茶入れを献上しています。
松永久秀の茶器:『古天明平蜘蛛』茶釜
古天明平蜘蛛は、蜘蛛がはいつくばっているような形をしていることから、平蜘蛛と名付けられた茶釜で、松永久秀は特に大切にしていました。
松永久秀は、信長に対して2度反逆をするのですが、2度目の反逆時は信貴山城に籠ります。信長は、久秀の持っていた平蜘蛛のの茶釜を渡せば許すと言うのですが、久秀は今度ばかりは応じません。
ついに、1577年10月10日に、天守に火を掛け自害しました。
この時に、平蜘蛛の茶釜と一緒に火薬を掛け、自ら爆死したという説もありますが、どうやらこれは後日創作された話のようで真意は分からないそう。
それでは、松永久秀が最期を過ごした、信貴山を訪れてみましょう。
松永久秀が最期を過ごした信貴山城跡
信貴山城跡へは、車やバスでも行けますが、大阪から今回は電車を利用します。
大阪上本町から、近鉄大阪線に乗り、河内山本で信貴線に乗り換えます。終点の信貴山口で降りたら、そのままケーブルカーに乗り換えましょう。
高安山頂駅でケーブルカーを降りると、すぐ近鉄バスのバス停があるので、信貴山門行きに乗り、終点で降ります。
看板が出ているので、そのまま歩いていくと、赤い大きな橋(開運橋 全長106m)に出るので渡りましょう。ここでは、いつもバンジージャンプが行われています。結構高いので怖そう!
橋を渡り終えたら、信貴山朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)の境内に入ります。
1400年程前に、聖徳太子が戦いに出る前にここに立ち寄ったところ、空から毘沙門天が現れ、必勝の秘法を授かったと言われています。それが、寅年、寅日、寅の刻だったため、毘沙門天は寅に縁のある神様として、信貴山に祀られているのです。
入口で、大きな虎の張り子が迎えてくれました!
せっかくなので、信貴山朝護孫子寺の本堂をお参り!ここから、見渡す景色も綺麗です。
信貴山朝護孫子寺に祀られている神様は、毘沙門天王様です。
さて、信貴山城跡までは、多宝塔の裏の山道を登って標高437mの空鉢護法堂(くうはつごほうどう)を目指します。スロープと階段を登っていくのですが、結構大変で片道約30分くらいかかるので、無理はしないようにしましょう。ところどころに鳥居があります。
空鉢護法堂の下に、信貴山城の石碑が立っています。松永久秀は、城造りの名人でもあったようで、ここに日本初の天守を作ったと言われています。
それにしても、こんな高いところによくお城を建てたなぁ、という感心してしまいます。
まとめ:松永久秀の悪人説は噂から出たものも多い
戦国時代の大悪党と言われる松永久秀と信貴山城址、いかがでしたでしょうか。
ここでは、
・松永久秀の生涯
・悪人と言われる所以
・茶人としての松永久秀
・最期を遂げた信貴山城
について書きました。
下剋上の代名詞とも言える、悪名高い松永久秀ですが、調べていくと、その悪行の数々は噂として流されたものや、後から作られた話であったものも多いようです。
肖像画やイラストでは、恐ろしい顔で描かれることが多いですが、実際はかなりの美男子で立ち振る舞いも美しく、それもあって出世したとも言われています。
ただ、江戸時代以降の平和な世界では、下剋上などという家臣が主人を倒す、ということはあってはならない価値観に変わり、そのため久秀は悪人というイメージがついてしまったのかもしれません。
歴史の主役ではないけれど、脇役としては最高に面白い方なので、機会があれば是非紹介してみてくださいね。
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