今、日本の文化や習慣を体験しようと、宿坊に泊まることを希望される外国人の方が増えているようね。
そうなんだ!特に人気のあるのは、高野山だよ!でも、宿坊に泊まるのは遊びじゃないから、高野山がどんな場所で、どんな信仰であるかは、事前にきちんと説明しておきたいね。
最近、訪日外国人の方で、高野山へ行って宿坊へ泊まってみたいという方が増えているそうですね。
せっかく日本に来たのだから、神社仏閣の観光だけではなく、実際にその文化に触れてみたいと考えていらっしゃるのかもしれません。
高野山にはホテルはありませんが、数多くある宿坊は、僧侶や参拝者だけではなく、一般の人も泊まって、座禅や写経といった修行体験をすることが出来ます。
お寺ならではの、精進料理を満喫できるのも楽しみですね。
通訳ガイドになれば、高野山に訪日外国人を案内する機会も出てくると思いますが、やはりここは一般の観光地ではなく、信仰の場所ですので、最低限の敬意を持って過ごしていただきたいもの。
そのためには、高野山がどのような場所であるかお伝えし、神聖な場所であるということを理解してもらう必要があるのではないでしょうか。
ここでは、高野山の開祖である弘法大師『空海』と高野山の主な地区について書いています。宿坊に泊まってみたい外国人の方がいらっしゃれば、ぜひ高野山についてのお話をしてあげてみてくださいね。
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高野山ってどんな場所
高野山は、標高約900m、弘法大師・空海が約1200年前に、密教の道場にふさわしい場所として開いた、真言密教の聖地です。
明治以前は、『一山境内地』といって、高野山全体が総本山金剛峯寺であるとされていましたが、現在は『奥の院』と『壇上伽藍』を2大聖地として、人々からの信仰を集めています。
奥の院とは?
奥の院へは、『一の橋』からスタートします。
ここから、弘法大師がいらっしゃる御廟までは、約2キロの参道が続きますよ。
2キロ歩くのが大変な場合は、中の橋までバスで行って、そこから歩き始めることも出来ますが、元気ならば、せっかくなので、一の橋から始めたいですね。
一の橋では、まず御殿川を渡ります。御廟までは、合計3つの川を渡るのですが、これは現世・来世・浄土の境界を表していると言われているのですね。
一の橋まで、弘法大師が迎えに来てくださると言われているので、ここでは一礼してから入りましょう!
さて、奥の院の参道に入ると、早速、両側に多くの墓石や記念碑が立ち並んでいるのが見えています。
新しいものもあれば、古いものもありますね。
織田信長、明智光秀、豊臣家、石田光成、伊達政宗、武田信玄、上杉謙信、そして徳川家といった、名だたる戦国武将たちのお墓がならんでいます。
現世では仲が悪くても、ここではお隣同士というのもなんだか不思議なものです。
さて、いよいよ、弘法大師御廟が近づいてきました。3つ目の橋、『御廟橋』を渡ったら、聖域とされています。この先は写真を撮ったりしてもダメですよ。
御廟橋のすぐ手前にあるのが、御供所。ここはお大師さまへお供えする毎日の食事を調理する場所で、毎日6時と10時半には、お食事が御廟に運ばれていくのを見る事が出来ます。これは、『生身供(しょうじんぐ)』と呼ばれる儀式で、1200年ずっと続けられているんですね。
実は、弘法大師はお亡くなりになったのではなく、入定(瞑想をして生きたまま仏になること)して御廟にいらっしゃるんだそうです。つまり、まだ生きていらっしゃるとのことで、そのため、毎日お食事が運ばれているのです。
和食だけでなくパスタなどの、洋食もお供えされるそう、と案内人の方からお聞きしました!
それでは、御廟橋を渡って、御廟でお参りしてきてくださいね!
壇上伽藍の見どころ
奥の院と並んで、高野山の聖地とされている場所のが『壇上伽藍』です。
弘法大師が高野山を開かれた時に、一番に塔や御堂を建てた場所ですね。
高野山を1つのお寺とみた時に、ちょうど中心となる部分で、密教の世界では大切な『胎蔵曼荼羅』の世界を表していると言われています。
曼荼羅とは簡単にいうと、密教の教えである仏の世界観を絵にしたものです。仏の世界は、「悟りの世界の胎蔵界(たいぞうかい)」と「知恵の世界の金剛界(こんごうかい)」が2つ揃う事で完成します。そのため曼荼羅も、胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅が2つセットであげられます。
参照:『曼荼羅(マンダラ)でわかる! 密教の世界』四国おへんろnet
現在、境内には、19の建造物が立ち並んでいます。
金堂
弘法大師によって、最初に建設されたお堂で、講堂と呼ばれていました。現在の建物は、昭和7年に再建されたもので、入母屋造りとなっています。
根本大塔
真言密教の世界を表したのが、壇上伽藍で、その根本的理念を表した建造物ということで、根本大塔と呼ばれています。内部は、曼荼羅の世界を立体的に表現しています。
壇上伽藍の中心にある修行の場で、高さは48.5メートル。日本で最初の多宝堂です。
根本大塔 拝観料:200円
金堂 拝観料:200円
金剛峯寺
高野山真言宗の総本山とされているお寺です。
現在の建物は、1863年に再建されたもので、主殿は東西に三十間、南北に三十五間の広さがあります。
特に有名なのが、大広間の狩野探幽による襖絵『松に群鶴』と豊臣秀次が自刃したという柳の間の狩野探斎により『雪柳白鷺』です。
金剛峯寺 拝観料:大人500円
拝観時間:8:30~17:00
弘法大師・空海とは
それでは、真言宗の開祖であり、高野山を開山した弘法大師・空海とはどのような方なのでしょうか。
空海の生まれた時代
空海が生まれたのは、774年、平安時代の初期です。現在の香川県、讃岐の国に生まれました。
幼少時の名前は、真魚(まお)って言うんですね。可愛いお名前です。
18歳の頃には京都の大学へ通っていらっしゃいましたが、途中でやめて、仏の教えを求め、四国などで修行日々を過ごされます。
空海が修行で訪れられた、四国の八十八か所の霊場を巡礼することを遍路と言い、今でも多くの人が全国から来られて遍路の旅を続けられていますね。
ちなみに、厳しい修行の中には、室戸岬にある御厨人窟(みくろど)の中で行っていたものもありますが、その時に目に見えるものは空と海だけだったということから、名前を『空海』としたと言われています。
唐への留学
さて、平安時代の初期、中国は唐という国でした。日本から、高僧などを唐の国へ派遣することを『遣唐使』と言い、中国で仏教の修行をしたいと願った空海は、804年に医薬を学ぶ薬生として第18回遣唐使に参加します。このころは、まだ空海は全くの無名だったのですね。
この時一緒に唐に渡った仲間には、のちに天台宗の開祖となる最澄や、空海・嵯峨天皇と共に三筆の1人ともされる橘逸勢(たちばなのはやなり)もいました。
空海は長安にある青龍寺で恵果和尚の元、半年ほど修行をします。この青龍寺は88か所の0番札所ともされているところなんですね。
この時に、阿闍梨という位になる儀式を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」という意味の遍照金剛(へんじょうこんごう)という位名を与えられます。
四国八十八か所のお遍路でも、南無大師(なむだいし)遍照金剛って短いお経を唱えますが、これは、「生きていく上で弘法大師を拠り所として生きていく」という意味なのですね。
真言宗を始める
元々20年の唐への留学予定を2年で終了し、空海は帰国します。
密教の分野に関しては、最澄の弟子となり、2人は10年以上も交流を続けますが、次第に考えの違いから対立するようになってしまいます。
空海が唐から持ち帰った密教の経典を、最澄は貸して欲しかったようですが、空海はそれを断ったようですね。密教の修行は経典を読むだけではダメで、きちんと修行をして欲しいという空海の思いがあったようです。
809年に即位した、嵯峨天皇は密教の強い信者で、そんな嵯峨天皇のサポートもあって、空海はついに818年に高野山の伽藍建立を始めることとなったのです。
835年に体調を崩し、62歳でお亡くなりになってしまいますが、真言宗では空海は亡くなったのではなく入定し、今も奥の院の霊廟で禅定(瞑想)を続けているとされています。
弘法大師という名ですが、これは入定後の921年に、醍醐天皇から贈られたものです。
まとめ
高野山と弘法大師・空海、いかがでしたでしょうか。
・高野山の見どころは奥の院と壇上伽藍
・空海は、唐で密教を学び、日本に帰り真言宗として広めた
・高野山は真言宗を学ぶ場所で、壇上伽藍は『胎蔵曼荼羅』を表している
・空海は今も奥の院霊廟で禅定をつづけているとされている
ということについて、ここでは書きました。
平安時代の二大仏教、天台宗と真言宗。その真言宗を広めた空海のお話や伝説は、まだまだ日本中にたくさん残っていますので、また機会があれば書いていきたいと思います。
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